【ソウル=黒田勝弘】「日帝時代は暗鬱(あんうつ)な時代ではなく、資本主義が根を下ろし、すべてが新しく始められるダイナミックな時期だった」−韓国が「日帝時代」と称される日本支配から解放された記念日の15日、韓国の有力紙・東亜日報が最近の韓国の学者のこんな主張を紹介しながら、日本統治時代の歴史を多角的に見直す必要性を強調する論評を掲載した。
嗚呼、遥かなる大東亜。
平成18年8月15日、靖国の御社ならびに世田谷山観音寺に静かに存す特攻観音堂に参拝、祈念せしこの日に、わが一手記を同胞へ謹呈す。一大学講師拝
日本本土より、飛行機にして三時間余。小笠原諸島より南方に伸長すること幾海里、そこには旧大日本帝国陸軍ならびに海軍が、絶対国防圏として、米軍と死闘を繰り広げた幾多の島々がある。これらの諸島が同国防圏として大本営に規定された理由は、まさしく渡り舟のごとく、それらを北方へとたどり行けば、わが帝都へと敵戦力が自然と導かれるためである。
この島々は、個々の小さな諸島群を経て、北方よりサイパン、テニアン、そしてグアムと連なる。現在では、それらの島々は観光あるいはリゾート地として、日本人、ならびに米国人をはじめ、各民族の往来極めて盛んである。その一方で、当時の面影を残すものは、戦後六十年余の沈黙の歴史としての赤錆びた兵器の数々、建設物の残骸、ならびに祖国のために散華した両軍人将兵の墓石のみである。それらは今、あたかも往来する人々を静かに拒絶するかのように、ひっそりとたたずんでいるが、いまなお空を睨まんとする高射砲の猛々しい残骸をかいま見たとき、私はいまなおかの戦争には終止符がうたれていないのではないか、その痛切な思いを心中いだいたのである。
テニアンおよびグアムの間には、さらに二つの島々がある。アグイジャン島ならびにロタ島がそれである。アグイジャン島は、その戦略的悪条件のために、旧日本軍の兵力展開がなされることは敗戦直前までなかった。一方、ロタには、グアム、サイパンを繋ぐ要衝として、守備隊約三千人が、わずかな、かつ貧弱極まりない軽火器とともに配備されていた。不幸あるいは幸というべきなのであろうか、そのロタ島守備隊は、他の近傍の地獄と化した島々と異なり、米軍との直接対決の地とは成り得なかった。なぜならば、敵は、グアム攻略後、ロタへの展開を見合わせ、テニアンならびにサイパンへとその矛先を転じたためである。そのため、同島守備隊はほとんどの兵力を失わずに武力解除されるに至った。とはいえ、グアム、サイパン、ならびにテニアンを死守せんとする旧日本軍守備隊への米軍の猛攻を、ただただ傍観するのみであった同島守備隊将兵の胸中は、帝国軍人としていかなる思いであったのであろうか。その慚愧の念そして涙虚しく、近隣に展開した旧日本軍守備隊は悉く“玉砕”したのであった。その獅子奮闘ぶりについては、いまさら詳述するまでもない。
私は、物心ついたときより、先の大戦争である“太平洋戦争”は、大日本帝国が引きこした侵略戦争の最終局面であり、アジアに多大なる損害と悲しみをもたらしたのだという“常識”を、さして大きな疑問も抱かずに三十数年生きてきた。これは、私だけというよりも、戦後世代の面々には極めて当たり前のことであったにちがいない。とはいえ、心のどこかで、何か腑に落ちないものを同時に感じていたのだろう。なぜならば、大学への浪人生活において、ある意味、よく言えば人生の充電期間、別の言葉で述べるならばモラトリアムの時間において、市内の古書店を時間の許すかぎり観覧し、この方面の累々の書物の採取につとめる日々であったためである。とはいえ、当時の私の興味は、主に“政治思想”であり、全学連ならびに全共闘をはじめとした左翼ならびにサヨク的思考にはじまり、その過程において面前することにあいなった右翼・民族派の面々、すなわち頭山満翁を首領とした玄洋社、内田良平の黒竜会、そして中野正剛ら民権、国権の民族派、保守思想へとわが思想の翼が広大していった、というのが正直なところであった。そのような“必然”たる道程を経つつ、祖国日本の歴史、とくに欧米列強に無理矢理開国を強いられた19世紀後半以降のわが祖国日本の“営み”へとわが思念が及ぶにいたり、このようにわが思考は転じていったのだ。
“あの戦争は果たして、日本人の多くが一般的に信じているような侵略戦争であったのか?あるいは、そのように信じ込まされているだけなのではないのだろうか?”
私の、当時は漠然とした朧げなる、しかし強い疑念は、それより十五年もの時をへてその答えを得るところとなった。すなわち、アメリカでの数年にわたる生活によって、私は自らのそれに終止符をうつことができたからである。カリフォルニアの爛々と輝く太陽のもと、一切の雑務なく、ただただわが本務のみにひたすら邁進する傍らで、私は“日本人”としての自己同一性=national identityを強力に模索し続けていた。とくに開国前後よりの日本の近代史を、まるでむさぼるかのようにひもといていく過程において、異国の地、いや旧敵国の地であったことが幸いしたのであろう、現在においてもなお広く信じ込まされている米国=正義と民主主義の防人、日本=軍国主義ならびに帝国主義の権化、というような単純な勝者側の論理への疑いが私の中で悉く昇華され、遂に一路真理へと結晶化するにいたった当時の感激はいまでも覚えている。
一、戦争には悪い戦争も良い戦争もない。国際政治の一解決手段として只それがあるのみである。
一、勝者の価値観は当然のこと、現代人の価値観をもってして過去を処断してはならない。
一、歴史認識とは、当時に対する熱い“共感”以外の何物でもない。
ここに至ってこそ、欧米列強にレイプ同然に開国せられたわが日本への、悲しいとも形容すべき“孤軍奮闘”の痛ましい、しかし勇猛たらんとした姿を想起することができる。先人同胞が死闘した大東亜戦争とは、欧米列強に抗するわが民族の自衛戦争であった。しかし、かつその一方で、自存自衛とはいえ、支那や朝鮮、そして台湾などのアジアに帝国の権益をも求めた戦争であったのだ。しかし、誤解なきは、あえて断るまでもなく、それは当時の帝国主義間における”当然”のことでもあったこと、また朝鮮、満州、台湾に関する権益については、日清、日露戦争後に規定された正当なる国際法にもとづいて合法的に獲得したものであり、当時の各国はおろか、満州事変時のリットン調査団さえも、帝国のこれら特殊権益を認めるにいたっていることは、現代に生きるわれわれ日本人は知っておかなくてはならない。すなわち、無秩序たる大陸および半島については、大日本帝国の統治に委任するのが妥当であるとの断を、当時の欧米列強の帝国主義各国はくだしたのであった。現代の価値観で、当時を裁いてならんとする所以はここにもまた存するのである。
大日本帝国の統治過程では、もちろん過酷な統治、あるいは傀儡政権のもと、地元の民への“大東亜共栄圏”の押しつけなどが、地域差はあったにせよ、現存したことは事実である。しかしながら、欧米のそれとの決定的違いは、欧米列強がただただ植民地より収奪するだけであったのに対し、日本は教育、医療、衛生、国家資本(国内資本がそのため赤字となったのである)と、大いなる“秩序”を現地にもたらしたということも、その両輪としてしっておかなくてはなるまい。なぜ故かと問わば、日本民族によってはじめて西洋の近代化の波が現地にもたらされたのであり、それ以前のアジアは欧米列強の被収奪地、および現地蛮族の跋扈する土地、すなわち“無秩序”なる不毛の地であったがゆえである。
それを支持するように、大日本帝国によって“啓蒙”、かつ“近代化”された現地アジアの人々は、帝国の敗戦後、もはやこれまで甘んじてきたような欧米列強の“奴隷”では決して足りえなかった。現地に“大東亜解放そして共栄”を信じて残った旧日本軍兵士とともに、再び舞い戻ってきた欧米列強を果敢に追い返し、独立を勝ち取っていったのである。これについては、東南アジア諸国の当時の首脳の自伝や手記をひもとけば、そこに我々は日本民族の大いなる足跡を見いだすことができる。したがって、先の戦争が欧米列強同様アジアへの帝国間戦争であるといういい分にはそれなりの理はまたあるにせよ、欧米列強、とくに米国の重圧(西進)、満州の日本権益の支那からの反日・侮日的圧迫、そしてロシアおよび中国より台頭してきていた共産主義の脅威よりの祖国防衛という視点への、当時わが祖国がおかれた国際情勢への思考なくば、歴史を公正に認識することは不可能であることはここにいうまでもない。そして、これこそが“歴史への共感”なのである。
ところが、笑止千万なことに、“自虐史観”を非難し、戦後民主主義を盲目的に礼賛し、大東亜戦争を太平洋戦争と呼び(なぜ米国より押し付けられた名称で呼ぶ必要があろう?われわれの祖先は、これを大東亜戦争と当時声高らかに歌い上げたというのに、、、)、侵略戦争、そして戦争責任総括と声高々に叫ぶものどもの頭蓋の中には、いまなおただただ目のつり上がった、野蛮かつ滑稽な日本の姿があるだけである。そこには他の列強諸国、すなわち米国、英国、オランダの姿なく、支那大陸の無秩序暗黒たる姿なく(先の在中日本大使館への無碍なる暴動に観られるように、反近代的気質は一貫して同じである)、朝鮮の奴婢的土壌、非近代的事大主義についての詳述も皆無であり、しかし、ただあるのは孤軍狂乱、一方的に暴れまくっているかのごとくの大日本帝国の姿あるのみである。しかし、これは科学的思考を常とする人間の帰結点としては、本当に妥当たると言えるのであろうか?釈尊は、すべての事象は複雑にからみあっており、なにひとつ単独で存するものはない、と喝破された。歴史への公正なる視点、そしてそれへの共感を、いかにして我が身のこととして思念すればよいのか。釈尊が見いだされた因果律の法をもってこれを熟慮するとき、そこにこそ正しい真実の光を我々は拝覧することができうるであろう。
大東亜戦争当時、ロタ島、そしてサイパン、テニアンなど、近隣の北マリアナ諸島において、最初にして最後の経済的繁栄をもたらしたわが祖国居住民の奮闘を想起させる数々の建物や機関車の遺跡、そして現地住民チャモロ人と日本人とによって協同して建立された平和の碑、これらが物語ることは、決してわが日本はかつての統治領において、ただ収奪のみを行ってきただけではなかった、という厳然たる事実である。悠久に時間が止まったかのような島のたたずまい、そして汚れなき群青の太平洋に沈む深紅の夕日。わが先人たる英霊たちが静かに眠るこの島や海海を眺めながら、現在の日本にはびこる倒錯した歴史観に対する怒りと新たな闘いへの決意が、わが心中に確固、そして奔騰するに至った南洋での有意義な一時。すべての日本人がたとえ本事を忘却し、私がただ一人これを主張するなきにいたっても、永遠の眠りが私を導いたのちさえもまた、決してこの歴史の真実を決して失念すまい。そう心に固く誓った私と妻の面前には、豊穣なる旭日がいままさに没しようとしていた。
人里はなれたここロタ島守備隊の将兵の墓に、わが胸襟にありし日章旗を奉納、帰国せしその日に記す。
一大学講師拝
● 東亜日報、「日本統治時代、韓国は近代化」 多角的に見直す論評
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硫黄島の死闘より帰還せし米国兵の多くの方々が”史実に公正あった”と讃える、クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作“父親たちの星条旗”、“硫黄等からの手紙”。
それにあたって同監督はこのようにのべている。
『若い日本兵たちは島へ送られたとき、十中八九、生きては戻れないことを知っていました。彼らの生き様は歴史の中で描かれ、語られるにふさわしいものがあります。』
『私が観て育った戦争映画の多くは、どちらかが正義で、どちらかが悪だと描いてきました。しかし、人生も戦争もそういうものではないのです。』
そしてこう結ぶのである。
『日米双方の側の物語を伝える二本の映画を通して、両国が共有うる、あの深く心に刻まれた時代を、新たな視点で見ることができれば幸いです。』
靖国の社に護国の命(みこと)と聖化し、現在そして将来の日本の行く末を見守るご英霊の方々は、戦後六十二年を経過した今日、大東亜戦争をめぐるその評価の軸が、再び中道公正へと回帰せんことを心より願っておられることであろう。
“時が熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取ったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう。”
ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判におけるインド代表判事。日本だけを断罪することは公正たる裁判においての暴虐であるがゆえ、日本をNot Guiltyとした唯一の判事。他判事は全員日本をGuiltyとしたがゆえに、同判事の真理への至誠がここに観覧できる)
